終わってしまったまいにち

これは拗らせオタクの人生

私と加藤シゲアキ

私と加藤シゲアキは魂を分かち合っている。茶化しているようで半分ぐらい本気でそう思っている。前の記事でも書いたけれど、私は自分が大好きで、とりわけ誕生日も好きだ。私の誕生日は特別珍しいわけでもなく、有名人にもちょくちょくいる。藤井フミヤとか。そうして誕生日が同じ人には結構親近感が沸いたりする。加藤シゲアキもその一人だった。一つだけ断っておくけれど、加藤シゲアキが好きな人は金輪際私の発言を見ない方がいい。それぐらい加藤シゲアキと私は密接に結びついてしまっている。申し訳ないことに、一方通行ではあるが。

はじまり

加藤シゲアキを知ったのはいつだったか覚えていないけれど、なんとなくBL漫画に出てくるネガティブな可哀想受けみたいなやつなのだろうなと思っていた。勝手に。そもそもジャニーズにあまり興味がなかったこともあり、私の魂分かち合いパーソンはもっぱらフミヤと坂口健太郎だった。しかしながら紆余曲折ありジャニーズにハマって、自然と加藤シゲアキという人間を意識するようになった。誕生日が同じだから。友達が好きだったこともある。NEWSの世界観が可愛くてなんとなくNeverlandの円盤を見せてもらった。MCは面白かったけれどあやめはあまり受け付けなかった。そのあと短編集を購入して、読みやすいけど性描写がキモいななどと消費者様様の感想を抱いていた。その頃には彼に対して同族意識のようなものが芽生えていた。

カカオ

私がシゲアキにハマったターニングポイントは、確実にカカオだ。友人に初めてカカオを見せられたときはなんとも思っていなかったのだが、なんだか急にカカオにハマった。本当に急、今年の二月ぐらいだ。少年倶楽部プレミアムのバージョンにどハマりしたのだが、はっきり断言しておく。あれは麻薬だ。初めて見たときは「飲食をするな!」「椅子の上に乗るな!行儀悪い!」「変な踊りするな!」「カーテンでお泊まり会するな!」と散々だった私も、いつしかカカオに魅せられていた。あのこじんまりとした狭い空間で行われるすべてがカカオの良さだと気付いたのは、ひとしきり小馬鹿にしたあとだった。「うんざりよ」のあとの顔を見た瞬間、可愛いと反射で叫んでしまったとき私は堕ちたことを確信した。今ではあのチョコレートを食べるシーンもブーツのヒールもパリのご機嫌お嬢様のような踊りも何もかもを愛しています。カカオを見るためにこの間Never Ending  Wonderful StoryとEPCOTIA ENCOREを買った。どのカカオもとても良かった。早いうちになんとか少年倶楽部プレミアムの分も手に入れなければならない。カカオはチョコレートなどではなくカカオという題名なのがすごく良い。曲中で一言もカカオが出てこないのが良い。全部いい。すべての歌詞がほんとうに好き。私はもはや「カカオ」という言葉自体にさえ愉悦を感じている。私が辞書を編纂できる権力を持っていたならば、カカオという言葉に加藤シゲアキのソロ曲の題名であるという注釈を入れたいと思っている。カカオのことを話し出すと終わらないので止めます。ちなみに何度も何度もループして見る中でついに私はカカオを歌えるようになった。他界隈の友達に披露すると「なんで?」と言われた。本当に意味がわからない。何故自担ではなく加藤シゲアキの歌を歌った?今は加藤シゲアキのソロ曲はぜんぶ好き。あやめも好きになった。好きすぎて、加藤シゲアキは私なんじゃないかなとよく思う。たぶん全オタクがそう思ってるに違いない。侮るなかれ、彼の曲はすべて素晴らしい。

ちがい

加藤シゲアキと私の共通点は多い。誕生日、血液型、出身地、大方の雑誌などでプロフィールに書かれることはほとんど一致していた。おまけに私は文を書くのが嫌いではなかったし、シゲは題材にするものが一々私の好みを突いてきた(全オタクの好みだと思う)。あと自意識過剰気味だったり、カメラを向けられると笑うのが下手になったり、すぐへらへらするのに愛想が悪かったり、興奮すると早口になったり、声が低かったり友達が少なかったりまあ色々ある。大体オタクはみんなそうだ。そんでまあ、「ふーんおもしれぇー男」とシゲアキを調べるうちにインタビューを見つけた。そしてそこにある、『自分に自信をつけられないまま、あれよあれよという間にここまで来てしまった』という言葉(勝手に要約してある)に心臓を貫かれてしまった。その一部分だけで、シゲアキがまるで自分自身かのような気がした。面白い話(面白くはないけど)、私と加藤シゲアキは、ほんとうはまったく違う人間だった。幼少期も趣味も嗜好も性格もまったく違っていて、共通点はデタカに記載される程度のプロフィールとただ世の中を斜めに見てて理性的に生きたいと願っているところだけだった。『それなりの努力でここまでこれてしまった。』私が心の中でずっと思っていたそれが、言い当てられてしまったようなどきりとした感覚が気持ち悪くも心地良くて、変な感じだった。私と"おなじ"だと思った。この感覚がたぶん私が未だに心の奥底で加藤シゲアキが自分なのだと思ってしまう大きな理由なのだと思う。こういう、うだつのあがらぬオタクはそこらかしこにいる。私予備軍は世の中に十万人ぐらいいるんと思うし、ニコニコ動画見てるオタクはみんなそうじゃないかな。私とシゲアキは"おなじ"だった。自分に根拠のある自信がなくて認められなかったり、時に身を任せてみたり、技術不足を理解しているのに変えられなかったり、でもプライドは人一倍高かったり。だれかに自分の実力を認めてほしいのに自分の実力は足りていないとわかっているから褒め言葉を素直に受け取れない。明確な根拠がないと信じられない。めんどくさ。ウケる。シゲアキの"かつて"の弱さが私自身の負の部分と重なって、かなり地獄みたいなことになっている。危なかった。彼が私と関係のないところで生きている芸能人で良かった。そうじゃなきゃ「わかるよ」と言って2人でどこまでも堕ちていくところだった。セーフセーフ。そしてこれまた私はこの滑稽さを俯瞰的に見て笑っていたりする。自分の中に主観的な人間と俯瞰的な人間が意識とは関係なく存在しているのは、たぶんシゲアキも同じなんじゃないだろうか。シゲアキは"ジャニーズだから"負の部分をそのまんま放置することは許されなかった。グループの中で確立した個性が必要だったし、きっとシゲアキは自分の欠点を知りながらへらへらできる弱さも持ち合わせていなかった。でも私は一般人だからこれからもそうやって生きていきます。壁にはぶち当たってから考える。だからシゲと私は厳密に言うと同じではないのだけれど、占いみたいなものと同じで少しでも当てはまると信じてしまうというわけだ。シゲアキが芸能人でなければどうだったか想像してみるとなんだか切ないのでやめます。まああのビジュで頭良いからいわゆる世間一般で言うそこそこ良い生活を送ってるんでしょう。しらんけど。本当の性質は私とは違うので、私よりも社会に適合できていると思う。しらんけど。

さいごにいろいろ

『苦悩』がシゲアキの良さだとしたらそれをぽんぽーんと放棄してしまった私はその時点でシゲアキではなかった。そう、私はシゲアキではない。実は、特にこれを読んでいる人は驚くかもしれないけれど、私は自分がシゲアキではないことを自覚している。シゲアキは前を向ける人間だった。昔はそうでもなかったのかもしらないけれど少なくとも今は、というか2011年ぐらいからは前に向かって進める人間になった。私なんかよりもたくさん、さまざまな人生経験を積んで、シゲアキは私よりもずっと先を生きてる。あと私よりもたくさんの人間から愛されてる。その時点でかなり自信つくと思うんだけど、昔のシゲ、ほんとなんなんだろう。私のファンおばあちゃんとお母さんだけなんですけど。それでも自尊心バリ高で元気に生きてるよ。すまん脱線。

だから、シゲは私だけど、私はシゲじゃない。

かつて私だったシゲはこれからもそれを抱いて成長していくんだろうな。抱いているシゲはいつだって私には戻れる。でも私はシゲになれない。きっとこれからもなる予定はない。それは別々の人間だからという意味ではなくて、私は白旗をあげ向上心を捨て揺蕩うことを選んだ。同族意識からシゲのこと散々小馬鹿してるけど加藤シゲアキという人間は、私なんかよりもずっと頭が良くてスポーツもできて(私はかなりドジなので)料理もできて歌もうまくてダンスもできて話も面白い。よっぽど素晴らしい人間で、勝ち負けで言うとシゲ圧勝で、私は並び立ってすらいない。かつてのシゲの負の部分に、あるいは根本にある弱さだけにシンパシーを感じてしまう私は加藤シゲアキの下位互換だった。そのことに気付いたとき、私は何故か安堵した。一緒だから好きになったのに、好きな人は私と一緒ではいて欲しくなかった。最近はもっぱらそういう苦悩をシゲに感じています。ワハハ。

そうしてここまで理解しておきながら、それでも私は「加藤シゲアキは私なんだ」と言い張る。

 

なんせシゲは私なので。

 

以上、勘違い最悪女の自分語りでした。これ読んだ人は何を言っているんだ…?と思っているかもしれませんが、私自身真剣に書いてるけど何を言っているんだ…?と思っています。

加藤さん、ささやかながら応援してます。